このサイトでは、昭和20年代に一世を風靡した金城裕先生からの聞き書きを中心に、金城先生の内弟子で先輩であり親友でもあった中村孝先生(武蔵野赤門道場創設者・第三代日本空手道研修会会長)、金城先生の愛弟子で修徳館々長八田 浩先生、また土屋秀男先生(小田原市・アルゼンチン空手道連盟創設者・全空連事務局次長・泊親会)などからの聞き書きを基に記しました。
個々の聞き書きでは、師匠や先輩には敬称を付して呼称しております(多くは直系の師筋や先輩方です)。また外部の先生方で、私が直接面識のあった方々については、すでに逝去された場合でも「先生」の敬称を用い、それ以外の歴史上の先生方については、敬称を省かせていただきました。
この方法は、私が少年の頃にお世話になった右翼の巨匠・遠山満の高弟であった千葉県成田市の加藤浦三郎先生(成田中学校に扁額がある)に倣ったものです。加藤先生は宮本武蔵を尊敬し、それを小説に著した吉川英治も敬愛され、「宮本武蔵先生」「吉川英治先生」と呼称しておられました。加藤先生は常に羽織袴の正装で、少年であった私にも深く頭を下げてご挨拶くださる方でした。戦後の暴力団右翼とは異なり、戦前の右翼は日本主義を掲げる優れた学者でありました。
同様の趣旨で、首里手の創始者は「松村宗棍先生」(金城先生の口癖)、空手の創始者は「糸洲安恒先生」とお呼びいたします。
現代の空手は、明治38年に始まった「西洋式学校体操」としての唐手を出発点とし、その後「唐手から首里手へ」と変化しました。さらに剛柔流が唐手として加わり、戦後には極真会館や上地流、さらにはキックボクシング系統なども取り込まれて、現在では混沌とした様相を呈しています。私はそれらについてほとんど無知であるため、本稿では私が学んだ首里系統の唐手(空手)に限定してお話しします。
したがって、ここでは剛柔流や糸東流、和道流など、唐手を源流としない、あるいは唐手から大きく変貌した流派については取り上げません。これらについては知識が皆無に近いため、どうかご容赦ください。
なお、私は金城先生の晩年の弟子であり、空手を十分に修得したとは言えませんが、独立後に金城先生から「金城門下を名乗れ」と言われた唯一の門下生です。これには、先生の愛弟子である八田浩八段の強い推薦があったようです。