第二話 空手とは何か

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何が空手かという問い

空手とは何か、ということは通常あまり考えないと思います。競技もあれば練習もあります。皆さんは「空手」という名前でそれを行っています。名称は同じ空手でも、統括している組織によって内容が違います。流派も様々で、それらを総称して空手と呼ぶのでしょうが、本当にそれが空手なのか、という疑問もありますよね。

四大流派というものがあります。それに絞れば空手の概念もはっきりするのかと言えば、流派間の差は非常に大きく、同じ空手なのかと疑問に感じるほどの違いもあります。自分免許で名乗る小流派まで加えれば、流派は二百以上あるでしょう。そこで世界的には「空手とは四大流派の空手が標準だ」と考えられているようです。四大流派とは、松濤館流、和道流、糸東流、剛柔流です。形競技の世界大会では四大流派の形以外は認められないようですから、この観点からは「空手とは四大流派の空手こそが本物である」と言うことになります。

会派という組織もあります。全日本空手道連盟が認めている会派は六大会派と呼ばれ、松濤会、和道会、糸東会、剛柔会、連合会、錬武会です。この六大会派それぞれの中にいくつかの流派が含まれていたり、逆に四大流派の中に複数の会派が含まれていたりと、混然とした状況にあります。剣道や柔道のように統一されてはいないのです。そこで「何が空手なのか」という問題が起こってくるのです。

これを解決するために「四大流派」とか「六大会派」といった整理が考えられたのだと思いますが、それでも解決には至っていないのが現状でしょう。

金城先生の口癖に「空手とは何か」「何が空手か」という問いがありました。先生から見れば、それが空手か否かははっきりしていたのでしょう。入門当初にそれを聞かされた私は、「なぜ分かりきったことを先生は繰り返し言うのか」と奇異に感じた時期もありました。「僕らがいま稽古しているのが空手でしょう?」という思いだったのです。ところが、先生はもっと奥深くを見ていらっしゃったのだ、ということがだんだん分かってきました。

形を演武すれば空手なのか。組手で対戦すれば空手なのか。先生の目から見れば、どうもそういうことではなかったようです。例えば、形の動作が空手に合致しているか、組手でその技は空手として合理的か、空手の最終目的は何か――そういうことまでを含めた「何が空手か」という問いだったのです。

空手の形競技には「団体形」という種目があります。空手が格闘技術だとすれば、団体形というのはおかしなものですね。空手から派生した競技と考えれば否定するほどのことではないのですが、最後まで勝ち進むと「組手演武」が義務付けられます。先生と一緒に世界大会を見た時、先生は私に、
「あれは空手じゃないよ。」
と話しかけられました。倒れた相手に打撃を加えたからです。先生によれば、倒れた相手を攻撃するのは空手ではない。空手の目的は相手を倒すことで、そのための手段として組手がある。組手で相手を制し、それに乗じて相手を倒す。そこで終わりだ――というご意見でした。先生は「先輩たちからそう教えられてきた」と語られました。

この聞き書き(百話)の冒頭の写真は、それを示したものです。空手の技術的な究極の目標は「取手」である、ということです。

何が空手かという問い

空手とは何か、ということは通常あまり考えないと思います。競技もあれば練習もあります。皆さんは「空手」という名前でそれを行っています。名称は同じ空手でも、統括している組織によって内容が違います。流派も様々で、それらを総称して空手と呼ぶのでしょうが、本当にそれが空手なのか、という疑問もありますよね。

四大流派というものがあります。それに絞れば空手の概念もはっきりするのかと言えば、流派間の差は非常に大きく、同じ空手なのかと疑問に感じるほどの違いもあります。自らの免許を名乗る小流派まで加えれば、流派は二百以上あるでしょう。そこで世界的には「空手とは四大流派の空手が標準だ」と考えられているようです。四大流派とは、松濤館流、和道流、糸東流、剛柔流です。形競技の世界大会では四大流派の形以外は認められないようですから、この観点からは「空手とは四大流派の空手こそが本物である」と言うことになります。

会派という組織もあります。全日本空手道連盟が認めている会派は六大会派と呼ばれ、松濤会、和道会、糸東会、剛柔会、連合会、錬武会です。この六大会派それぞれの中にいくつかの流派が含まれていたり、逆に四大流派の中に複数の会派が含まれていたりと、混然とした状況にあります。剣道や柔道のように統一されてはいないのです。そこで「何が空手なのか」という問題が起こってくるのです。

これを解決するために「四大流派」とか「六大会派」といった整理が考えられたのだと思いますが、それでも解決には至っていないのが現状でしょう。

金城先生の口癖に「空手とは何か」「何が空手か」という問いがありました。先生から見れば、それが空手か否かははっきりしていたのでしょう。入門当初にそれを聞かされた私は、「なぜ分かりきったことを先生は繰り返し言うのか」と奇異に感じた時期もありました。「僕らがいま稽古しているのが空手でしょう?」という思いだったのです。ところが、先生はもっと奥深くを見ていらっしゃったのだ、ということがだんだん分かってきました。

形を演武すれば空手なのか。組手で対戦すれば空手なのか。先生の目から見れば、どうもそういうことではなかったようです。例えば、形の動作が空手に合致しているか、組手でその技は空手として合理的か、空手の最終目的は何か――そういうことまでを含めた「何が空手か」という問いだったのです。

空手の形競技には「団体形」という種目があります。空手が格闘技術だとすれば、団体形というのはおかしなものですね。空手から派生した競技と考えれば否定するほどのことではないのですが、最後まで勝ち進むと「組手演武」が義務付けられます。先生と一緒に世界大会を見た時、先生は私に、
「あれは空手じゃないよ。」
と話しかけられました。倒れた相手に打撃を加えたからです。先生によれば、倒れた相手を攻撃するのは空手ではない。空手の目的は相手を倒すことで、そのための手段として組手がある。組手で相手を制し、それに乗じて相手を倒す。そこで終わりだ――というご意見でした。先生は「先輩たちからそう教えられてきた」と語られました。

この聞き書き(百話)の冒頭の写真は、それを示したものです。空手の技術的な究極の目標は「取手」である、ということです。
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